西蓮寺創建
天正15年(1587)織田信貞は江州神崎郡に西蓮寺を建立
同地に邸宅を構えて移り住む
■織田信貞(おだのぶさだ)
1574年(天正2年)、織田信長公の九男として誕生。
1582年(天正10年)、本能寺の変(ほんのうじのへん)で父・織田信長が亡くなったあとは、埴原長久(信長の家臣)に育てられた。成長した織田信貞は豊臣秀吉に仕え、近江国(おうみのくに:現在の滋賀県)1,000石を拝領。
1587年(天正15年)、江州神崎郡に西蓮寺を建立。
1600年(慶長5年)、「関ヶ原の戦い」では、織田信長の七男 織田信高(おだのぶたか)と共に豊臣方の西軍に加わり、関ヶ原の戦いの前哨戦と言われる「伏見城の戦い」にも参加した。
関ヶ原の戦いで西軍は負け、織田信貞は身分を剝奪し領地・家屋敷などを没収となるが、織田信長の子ということで死罪だけは免れたと言われている。その後、「徳川家康」に召し抱えられ、1614年「大坂冬の陣」では江戸幕府軍の一員として加勢。
1624年(寛永元年)、織田信貞は51歳でこの世を去った。
当山ゆかりの女流画家
■織田瑟瑟(おだしつしつ)
安永8年(1779年)、近江国神崎郡(現在の滋賀県東近江市)川合寺で、知行700石を領する津田内匠貞秀の長女として誕生。名は政江。
津田家は織田信長の九男織田信貞を遠祖とし、豊臣秀吉より神崎郡内御園荘に領国を賜り川合寺に館を築いた。
代々江戸に住んでいたが、信貞の次男で高家旗本であった織田貞置の孫・織田長経(貞秀の父)が領国川合寺に隠棲し、津田姓を称したことから川合寺津田家は始まる。
政江が10代前半の時、縫殿助岐山なる風流人を婿に迎える。
瑟瑟は京都に移り住み、やがて娘が生まれるが寛政6年(1794年)に娘は夭逝する。
その後、京都鳴滝の女流画家で桜花の写生を得意とした三熊露香に入門し、本格的に絵を学ぶ。
画名を「瑟瑟」とし、これは風の吹く様、或いは深緑色を意味する。
早くも寛政8年(1796年)と翌9年(1797年)京都の「東山新書画展」に夫と共に出品している(同目録)。ところが夫も寛政9年に死別する。
文化7年(1810年)の『近世逸人画史』には「平安人」と記載され京に住んでいたようだが、その後川合寺の本家に戻り、11歳年上の彦根藩士石居家の三男・信章を瑟瑟の婿養子津田信章として迎え入れた。
しかし、文化10年(1813年)瑟瑟が35歳の時に夫・信章は病死し、その後は再婚せず、子の貞逸の教育に徹する。
貞逸成人後の50歳前後で剃髪、妹の八千代と共に隠棲した。
なお、貞逸も母同様の桜図が数点確認され、八千代も絵を良くしたという。
天保3年(1832年)に54歳で死去。

織田信貞像(岐阜市歴史博物館蔵)

瑟瑟の桜画は織田桜と呼ばれる

近年修復された山門

本尊 阿弥陀如来立像